【卑弥呼】  
生年不明 、247年あるいは248年頃、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号は親魏倭王。

大峰山
を開山し、修験道の開祖と成った役行者は、西暦655年位に、大和の国は葛城にご誕生せられ、御年68歳に渡天せられたと山伏問答に伝えられています。つまり西暦655年から西暦723年と成り、俾弥呼の時代より400年、500年後の時代と成ります。

「魏志倭人伝」の卑弥呼
「魏志倭人伝」によると卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明。ただし中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。

既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。

卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当する)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。塚の大きさが直径で記されているところから、円墳であったと考えられる。

「魏書帝紀」の俾弥呼
『三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。

『三国志』
時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。その女子の名を卑彌呼といい、鬼道に仕え、よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はないが、弟がいて国の統治を補佐した。
景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。
正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
正始四年(243年)12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
正始六年(245年) - 難升米に黄幢を授与。
正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。
時期不明 - 卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

『後漢書』
建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。
永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。
189年前後か? - 一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。


卑弥呼は径百余歩の墓に葬られたとする。この墓がどこにあるかは様々な説がある。一歩 (尺貫法)の単位については、周代では約1.35m、秦・漢代では約1.38m、魏代では約1.44mと言われている。 卑弥呼の死んだ時期は弥生時代から古墳時代への移行期に当たる。邪馬台国が畿内にあれば卑弥呼の墓は古墳の可能性があり、箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説もある。一方、九州説では平原遺跡や九州最大・最古級の石塚山古墳などを卑弥呼の墓とする説などがある。

また、魏志では殉葬者は奴婢百餘人と記述されている。卑弥呼の墓は、古墳に埴輪が導入される以前だったかもしれないとの説もある。『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とするためである。

邪馬台国畿内説の奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説では、箸墓古墳の後円部は約150mで径百余歩に近いからとする。箸墓の築造年代は3世紀第3四半期頃に絞り込まれつつあり、この説は箸墓を寿陵とみるか否か、および卑弥呼の死去を何年頃と見積もるかに大きく依存することになる。また、奈良県御所市玉手山の尾根が径百余歩で、卑弥呼の墓という説が近年出された。この説は六代孝安天皇を卑弥呼の男弟とする説で、孝安が葬られたとする玉手山にその古墳が存在することを重要な根拠とする。

九州にある石塚山古墳については、築造時期が3世紀中頃(古墳時代開始時期)〜4世紀初頭で、墳丘長は120m〜130m前後と考えられている。ヤマト王権の象徴である前方後円墳(国内でも最古級)である一方、吉備地方に起源をもつ特殊土器類(特殊器台・特殊壺)や埴輪は確認されていないという特徴を持つ。出土鏡はすべて舶載鏡(中国鏡)と考えられている。

また、平原遺跡については古墳時代以前、弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓がある遺跡である。1号墓からは「大型内行花文鏡」が出土されているが、原田大六によってヤマト王権の三種の神器の一つ「八咫鏡」の起源であると主張されている。平原遺跡出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」は直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなっている。尚、咫(あた)は円周の単位ともされ、約0.8尺である。径1尺の円の円周を4咫としていた。したがって「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)の円鏡を意味する」といわれている。尚、『御鎮座伝記』には「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」と記載されている。
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